足るを知り満ちるを学ぶ

Spotifyでミシェル・オバマのポッドキャストが始まった。昨日の夜やっと時間を取ることができて、第一回のゲスト(ふふ ^_^)オバマ元大統領との対談を聞いた。

 

もう胸がいっぱいになるような、涙が流れてくるような、素晴らしい内容だったんだけれど、ひとつ私の心に残ったのは、満足ということについての話だった。

 

二人とも決して金銭的に裕福とは言えない環境に育ったけれども、貧しいと感じたことはなかったと。親そして祖父母が、子どもたちのことをちゃんと考え、友達も含めた子どもたちみんなを、大人みんなで育ててくれた。ぜいたくはせず、生活の中での優先順位がちゃんと決まっていた。

不平不満を言ったりすると、親から「Never satisfied(足るということを知らない)」と呆れられたという。例えば、目の前にちゃんとアイスクリームがあるのに、トッピングが欲しいとか、あれがないこれがないとか、言い始めるときりがない。食べ切る前から、なぜもっと欲しいという?それを聞いて、子どもたちは子どもたちなりに、まあそりゃそうだよな、とちょっと恥じ入る気持ちになったそうだ。

 

これを聞いて、両親のことを思った。彼らは、戦中戦後に子ども時代を過ごした。ほぼみんなが貧しかった頃。

 

ママは、きょうだいや、広い意味での家族も含めた人たちと、小さな家で育った。貧しかったけど、ママのおばあちゃんは何かしらおやつをいつも用意していて、気がつけばいつの間にか近所の子どもたちが上がってきては遊んでいるような、にぎやかな家庭だったそうだ。「しっかしあの頃は貧乏だったよねーアハハハでも楽しかったよー」と、悲壮感のかけらなど一切なく明るく話すところを見ると、本当に楽しい子ども時代だったのだろうと思う。

 

父も、きょうだいや、広い意味での家族も含めた人たちと、貧しい家庭で育った。でも、ママのところとは違い、楽しかったという話はほぼ聞いたことがない。家族間の不道徳、親子の間のえこひいき、きょうだい間の羨み、理不尽な扱いなどが横行していたと、いろんな人から聞いた。そのことは、父の普段のふるまいからも明らかだった。

 

育った環境は、その後の人生に大きな影響を及ぼすものだ。

 

ママは、背伸びをせずに、自分の身の丈で生活できて、それで満足できる人。あるもので間に合わせられる。まわりの人の世話もちゃんとできて、人付き合いも気負わずに楽しめる。

 

父は、お金があれば買い物ばかりしていた。なにかにこだわりだすと、ブレーキの効かない人だった。バブルの頃など、毎週末(どころかもっと)街に出かけては服を買っていた。ある時期は白いシャツを探していたようで、しばらく前に父のアパートの片付けをしていた時、白いシャツが60枚以上箱に詰められて出てきた。どれも一度袖を通したか通していないか程度の新品だった。

だけど、住む家には一切お金をかけたくないようで、借りていた家の雨漏りがひどくなっても、台所の床が抜けても、家賃が上がるのが嫌だと言って大家さんには連絡しなかった。しかしその事に関し堂々としているわけではなく、うちに人は一切呼ばず、ボロで恥ずかしいと言っていた。

 

父は、本当の自分をさらけ出すのが恐ろしくて、外には虚栄心があった。家はボロボロで、服装だけはちゃんとしていたのは、それの表れのような気がする。心のなかの大きな虚無を、もので埋めようとしていたのかな。

 

私はというと、あの二人を親に持ったおかげで、こうでありたいという方向性を自分なりに探してこれた。

 

30代の頃、自分で使えるお金が少し貯まってきて、身につけるものに少しだけお金をかけてみたりしたのだけれど、父のようになりたくないという恐怖が強くて、買い物する度にドキドキしていた。大体、ちょっと着飾ったからと言って、自分はどんくさいという思いが消えるわけじゃない。結局しばらくしたら、自分にはユニクロの通勤電車プリントTシャツが一番の宝物だと思えるようになった。

 

身の丈を知る、ということは満足につながる。満足ができれば、自分のことだけを考えるという不自由と孤独から解放される。

 

自分の靴下の引き出しとかを見てると「なぜこんなにたくさん?!」と思うし、満足とはなにかということを身につまされるのだけれど、少しずつ足るを知り満ちるを学び、分け合うことに喜びを見出す人になりたい。(静かにアマゾンを閉じる)