日常を探して

いま車がなく、移動手段が市電かバスかタクシーに限られている。近くには店もあまりないし、その上暑くて日中はあまり出歩けないので、普段の買い物はネットスーパーか、冷蔵しなくていいものは母のところに行ったときにその近所で買っておく。

 

それでも多少は近隣の買い物事情を把握しておきたいと思い、先週一日だけ比較的気温が下がった時にうちから15−20分ほどのところにある商店街(というには店が少なすぎるが)に歩いて行ってみた。

 

初めて歩く住宅街の風景は、いつかどこかで見たような気もするし、でもどこかよそよそしかった。草刈りの追いつかない公園で子どもをあやす母親たち。ステテコのまま道路でたたずむ老人。制服姿で信号を待つ高校生のグループ。チェーン店ではない100円ショップの店番を一人でこなす女性。小さいけれど繁盛しているスーパーで談笑しながら棚を補充する従業員たち。知らない人たちの知らない日常。

 

外は気温が下がったとはいえ29度ほどで湿度もマックスだったので、わたしは汗だくだった。エアコンの効いた店内との温度差はきつく、100円ショップもスーパーも早々に退出した。家に向かう間に熱中症にならないよう、スーパー横にいくつも並ぶ自販機でいろはすの塩レモンを買った。塩レモンフレーバーは期間限定だからか他のドリンクよりも数十円高い。選ぶことを許されているという贅沢の詰まったペットボトルを取り出しながら、誰にともなくほんの少しの後ろめたさを感じた。

 

行きで目に留まった古くて小さな花屋の前で立ち止まる。「ほおずき入りました」という紙切れが貼ってあり気になっていたのだ。ちょうど先日母と街中でほおずきを見たばかりだったから、翌日にでも持っていってあげたいと思い、入り口のサッシを開けた。

 

その店はそれほど品揃えがいいというわけでもなく、珍しいものも置いていない。店主も特に愛想が良いこともなく、なにをすすめるでもなく、ただ言われたとおりにわたしにほうずきを売った。きっと昔からやっていて、特になにもない住宅地の真ん中で、花を愛でる時間を持つ老いゆく住民たちには重宝がられているのだろう。華々しくはないけれど、地域に必要とされるという存在価値。

 

実が一ダースは連なっている、上下をぶっきらぼうに切られたほうずき一本は結構な長さで、持つのにちょうどいいところがなくて帰り道は難儀した。汗だくだし、もう片手にはいろはすだ。それでも母の喜ぶ声が聞こえるようで、子どものようにわくわくしながら残りの道のりを歩いた。

 

わたしはどこを訪れても、住宅街を歩いたり、地元の店を訪れて、その土地の日常を覗き見するのが好きだ。そして、ああ、ここなら住めるかな、いやなんか違うかな、と自分の姿をその風景に当てはめてみることが楽しい。そしてまれにだけれど、ああここになら自分の姿を見ることができる、と思う場所がある。(余談だが、わたしは不動産サイトや地図を見るのも大好きだ。特にこの2年半は毎日のように何時間と見ていた。)

 

本当は、この日もあの住宅街の中にしっくりと馴染む自分の姿を見たいとどこかで願っていた。でもそれは起きなかった。100円ショップも、スーパーも、花屋も、道路も、家々も、目の前なのにどこか遠くの風景のように見えた。この地へ来て、母の住むところの半径数百メートルの外では、なぜかいつもそうだ。どこへ行っても、自分とその土地の間に、どうしても破れることのない薄い膜がある。わたしはその膜の外から、中の人たちの日常を覗き込む。

 

悲しいというよりは、そういうものだからしょうがない、と思う。でもきっとこの先、日本のどこかでわたしを待ってる土地がある(昭和世代にはわかるフレーズ)と信じたい。アメリカで見つけたように、日本でもきっと見つかる。自分がその一部となり得る地が、自分の日常となり得る風景が、きっとどこかに。そして大切な人たちも、そこにいてほしい。

 

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