なおすことの前にくるもの

ずっとテクノロジー業界にいると、職種にもよるんだろうが、修正ぐせというのがつく。大小関わらず、不具合(バグ)は、すぐにでも修正すべきものという認識があるからだ。中にはいろんな事情で長期間修正できずにいるバグもあるが、少なくともわたしの場合は、そういうのが頭の何処か片隅に張り付いていて、思い出すたびに焦り、ひいては罪悪感まで感じたものである。業界を離れた今はそれも他人事で(同僚すまん)、気持ちがだいぶ楽になったけど。

 

ただ、修正ぐせとかそういうメンタリティはまだ残っている。あれもしなきゃこれもしなきゃという焦りぐせも手伝って、今日は生活の中のどの不具合を修正すべきか、無意識に考えて毎日アセアセしながら生きている。

 

そういうのがいかに心身に悪い影響を与えているかに気づくのは、体にサインが出るときだ。最近もいろいろ出ている。

 

閃輝暗点といういつまでも覚えきれない名前の症状が最初に出たのは4年くらい前だ。数ヶ月で収まったけれど、今年になってまた散発している。突然出てきてはしばらく視界が遮られて、横になったり休まないといけなくなる。緊張状態から一瞬解放された時や、ストレスが高まっている時、睡眠が乱れている時、気候に順応しきれない時などになるようだ。

 

(閃輝暗点は片頭痛の前触れと言われる。幸いわたしはひどい痛みに襲われはしないけれど、光や音に敏感になる。首が悪く普段から頭痛持ちなので、そういうときは無理はしないようにしている)

 

それ以外にも、ストレスをうまく管理できずに睡眠が乱れたりすると、胃腸症状が現れるときもある。

 

そういえば2月の末に日本に引っ越してきてから、数週間を除いては、ずっと睡眠が乱れたままだ。寝付きは悪いし、寝付いても夜中にパッと目が覚めて、大抵は1、2時間眠りにつけない。

 

これらの不具合に対して、いろいろ思いつくだけの策は施してはいるけれど、無意識の部分でなにかがうまくいっていないようで、しばらくまあまあ調子が良くても、すぐにどこかがまた叫びだす。バグのフィックスがどうも的を得ていない、というのか。

 

でも、実のところ、わたしはソフトウェアじゃない。バグフィックスとかで良くなるもんじゃない。自分は痛みや辛さを感じる人間だということを忘れて、不具合を修正することばかりに躍起になって、それでうまくいかないという、悪いサイクルに入っちゃってるんじゃないか。

 

そして、人に対しても、同じようなことをしていないか。人が苦しむのを見てるとこちらも辛いから、という実は自分勝手な理由を「相手のためだから」という大義名分にすり替えて、悪いところを直そうとしたりはしていないだろうか。苦しみの渦中の人を置き去りにしたままで。

 

なおすことの前にくる、一番大切なことは、痛みや辛さの中で、自分や人とじっと一緒にたたずむことで、その気持ちをできる限り受け止めてあげることじゃないのか。すべては理解できずとも、「それは辛かったね」「それは痛いだろうに」と、誰かが寄り添ってくれるだけで、それまで抱えていたものが軽くなり、この先の指針や進むべき方向が自然と決められるようになることだってあるんじゃないだろうか。

 

昔初めて行ったお医者さんで、話をしただけで結構アグレッシブな治療をいきなり提案されて躊躇していると、「but we have to fix what's wrong with you!」と威圧的に言われたことがあって、半ベソをかきながらオフィスを出たことがある。そこには二度と戻らず、遠かったけど以前お世話になった先生のところへ行って診てもらったら、もっとシンプルで後々に悪影響もない治療法で良くなったことがある。なによりその先生はベッドサイドマナーに大変優れた方で、一言思いやりのある言葉をかけてもらった途端、わたしはブワッと涙をこらえきれなくなったものである。先のアグレッシブな先生は病気を治すという自分のお仕事を遂行しようとしていただけなんだろう。でも、優しい先生に診てもらって、悪いところをなおす以上のことを仕事としているお医者もいるんだな、と思った。

 

最近では歳を重ねてきて、自分の体の声を聞くことをお医者さんや他人に丸投げするんじゃなくて、自分でももっとしっかりと聞いてあげなきゃと思うようになってきた。自分の体が送ってくる「辛いよ〜」というサインが見えたら、真っ向から否定したり排除したり戦ったりするのではなくて、痛い場所や辛い症状に名前をつけて、それらと対話を持つようにした。変かもしれないけど、効果はあると思う。

 

なんでそうしたのか覚えてないのだが、腸にはBellaちゃんという名前をつけた。Bellaちゃんが苦しいとか痛いとか怒っているときには、大変だねぇ、辛いよねえ、どうしたの、どうしたら楽になるかしら、と、お腹に手を当てながら話しかけてみることにしたら、心が少し安らぐようになった。

 

閃輝暗点にも最近Ziggy Dangerzoneというまるでかつてのコメディアンのような名前をつけた。発症するとzigzag状のチカチカが見えるのでZiggy、この症状が出てくるということはわたしのなにかが悲鳴を上げていて危険地帯へ入っている証拠だからDangerzoneとした。Ziggyが出てくると実はウザくて嫌なんだけど、Ziggyもわたしになにかを教えようとしているのだろうから、できるだけ静かに話を聞こうと思っている。

 

BellaもZiggyも、生身のわたしの分身だ。家族みたいなものだ。家族だからたまにはうんざりすることもあるんだけど、それでも愛しいと思えるようになってきた。それって、自分のことを、少しずつ愛することができるようになってきてるってことなのかな。

 

愛するって、なにもなおさないままでも、思いどおりにならなくても、そのままで受け入れるってことなんだよね、きっと。