余白のような日。

今日は(も)なんだかボヤ〜ンと過ごした日だった。

生産性がなくていやだなあ、スペイン語も韓国語も進んでないし、マスク作りも休んでるし、絵も描いてない。毎日 go go go って行きたいんだけど。なんて思いが浮かんできたけど・・・

少し頭が痛いのでちょっと横になった。今一時的なオフィスとして使ってるゲストルームのデイベッドに寝転がると、ブラインドを半分上げた窓から青い空が見えた。いつものベイエリアらしい青い空。雲ひとつない。

「あ。こういう余白のような日も必要なんだ。」

ふと思った。美しい絵には、空や海のような余白というか大きなスペースがあったり、光と影のドラマチックな境目があったり、細かくいろんな情報があふれている部分があったり、いろんな要素が含まれている。

私達は生きながらそれぞれいろんな絵を描いている。人生という絵。下地だけを塗るような日もあれば、筆を洗うだけの日もある。目の醒めるような色を塗る日もあれば、一から描き直す日もある。

この数日、私は食料を買い込み、生鮮食品を洗ったり準備したり、作り置きを作ったり、家族の世話をした。カウンセリングを受けて、頭がいたいときは横になり、近所のえせ大濠公園に散歩に行き、ママとスマホレッスンと称して長電話(長LINE?)して、自分の世話もした。いろいろと複雑な、時に悲しい、知らせとも向き合った。振り返ってみたら、派手じゃないけど、結構ちゃんと生きてたじゃん。

一日一日がパズルのピースだとしたら、余白のようで目立たないけど安定した、今日みたいなピースがあってもいいじゃない?生きていれば、ものすごく情報量の多い濃いピースもあるし、忙しいなぐり書きのようなピースもあるし、真っ白なピースもある。今日のピースは、今までのピースと、そしてこれからのピースとつながって、どんな絵になるだろう?そして、自分の絵だけでなく、きっと世の中のすべての人の絵とつながって、大きな大きな絵が書かれているんだと思うと、どの部分もムダじゃない、大事な一部なんじゃない?

なんて、昼寝ウトウトしながら思って、野菜を洗う日も、佃煮を作る日も、愛おしく思えた。そう思えただけで、今日はいい日だ。