そこじゃない、ここにいる。

昨日、ちょっと調べ物があって、昔大学でお世話になった先生(教授)の情報をググった。

 

今もまだ現役のその先生の経歴には、私が学生だった頃やその後、どこで教えたとか、何を専門にしているとか、書いてあった。

そんなのは特に変わったことではないんだけど、読んでたら、不思議と、自分の意識がその昔、先生の授業を取っていた頃にフーッと戻っていくような感覚を覚えた。

 

あの頃、まだ小さい頃からのいろいろを引きずっていた私は、ますます不安定な心を抱えて、いろんなことをあきらめ気味に、でも抜け出したい、でも無理だろう、というグチャグチャの中を生きていた。無意識に不安定な状態でいると、それを利用して付け込んでくるロクでもない人たちもいるし、同じように不安定な人たちがマウントを取ってきたりもする。そして自分さえ自分の味方になれず、いつも心の中は一人ぼっち。

あの頃抱えていたやるせなさ、常にある悲しさ、閉じ込められた怒り、自信のなさと自身のなさ、心身をむしばむ不安、そんなものが、かなりのリアルさで感じられた。もう何十年経ってる?と思うのだけど。

 

でも、そこで立ち止まって、「よし、くみちゃん、ちょっと考えてみよう」と自分に言えるようになったところが、セラピーの成果である。

 

あれから何十年という間に、私は成長したし、ものすごい失敗もしたし、でもなんとか起き上がって、歩いてくることができた。たくさんの人に支えられて、傷つき傷つけられて、愛され憎まれ、カッコ悪いけど今まで生き延びてきた。それだけでもかなりのがんばりじゃない?

今の私は、ここにいる。あの時、あの場所にはいない。あの時の私は私で、その時の自己ベストで生きていた。よしよし、と言ってあげたい。そして、今の私にも、あれからすごいがんばってきたじゃん、よしよし、と言ってあげたい。今は、ここは、安全な場所。誰も何も、私からそれを取り上げることはできないよ、だってその安全な場所は自分の中にあるんだから。

 

あの時思っていたこと、例えば、自分はバカで、自分は無力で、なんたらかんたら、っていうのは、何十年かけて、「いやそうじゃない」って自分で自分に証明してきた。私はそれなりにいろいろできるし、怪力ではないが無力でもない。結構ちゃんとしている。えらいぞくみちゃん、って自分で自分のコウペンちゃんになりきって、自分を評価してあげた。

 

ところで「調べ物」と最初に書いたのは、実はいつか学校に戻れたら、とずっと思っていて、暇にあかせていろいろ下調べしているのだ。自分の動機や必要とまずきちんと向き合わなきゃいけないし、現実的に可能なのかどうかとか(子どもたちの大学も終わってないのに!)、いろいろクリアすべき問題は山積みなので、まだまだ妄想レベルだけど、妄想って楽しいからつい・・・。

でも、昔のような「自分はバカ」「自分は無力」っていう思いがちょっとでも顔をのぞかせると、夢ってしぼんじゃうのよね。何をするのも、妄想さえも、苦行になる。でもせっかく楽しいこと、いいことを、なぜいまそこにないことで、ムダにする?もったいない!

 

今の私は、安全な場所で、長所も短所もある不完全な自分を愛し、励まし、楽しく夢を見て、今できることをやる。私は、昔のそこじゃない、今のここにいる。

 

さあ、今日も夢(妄想でもいい!)を見るぞ!

余白のような日。

今日は(も)なんだかボヤ〜ンと過ごした日だった。

生産性がなくていやだなあ、スペイン語も韓国語も進んでないし、マスク作りも休んでるし、絵も描いてない。毎日 go go go って行きたいんだけど。なんて思いが浮かんできたけど・・・

少し頭が痛いのでちょっと横になった。今一時的なオフィスとして使ってるゲストルームのデイベッドに寝転がると、ブラインドを半分上げた窓から青い空が見えた。いつものベイエリアらしい青い空。雲ひとつない。

「あ。こういう余白のような日も必要なんだ。」

ふと思った。美しい絵には、空や海のような余白というか大きなスペースがあったり、光と影のドラマチックな境目があったり、細かくいろんな情報があふれている部分があったり、いろんな要素が含まれている。

私達は生きながらそれぞれいろんな絵を描いている。人生という絵。下地だけを塗るような日もあれば、筆を洗うだけの日もある。目の醒めるような色を塗る日もあれば、一から描き直す日もある。

この数日、私は食料を買い込み、生鮮食品を洗ったり準備したり、作り置きを作ったり、家族の世話をした。カウンセリングを受けて、頭がいたいときは横になり、近所のえせ大濠公園に散歩に行き、ママとスマホレッスンと称して長電話(長LINE?)して、自分の世話もした。いろいろと複雑な、時に悲しい、知らせとも向き合った。振り返ってみたら、派手じゃないけど、結構ちゃんと生きてたじゃん。

一日一日がパズルのピースだとしたら、余白のようで目立たないけど安定した、今日みたいなピースがあってもいいじゃない?生きていれば、ものすごく情報量の多い濃いピースもあるし、忙しいなぐり書きのようなピースもあるし、真っ白なピースもある。今日のピースは、今までのピースと、そしてこれからのピースとつながって、どんな絵になるだろう?そして、自分の絵だけでなく、きっと世の中のすべての人の絵とつながって、大きな大きな絵が書かれているんだと思うと、どの部分もムダじゃない、大事な一部なんじゃない?

なんて、昼寝ウトウトしながら思って、野菜を洗う日も、佃煮を作る日も、愛おしく思えた。そう思えただけで、今日はいい日だ。

がんばった。

前回の日記?は、2年も前に書いたんだった。

PTSDのセラピーが、そろそろ終わりに近づいている。いやー、がんばった。先生に導かれながら、がんばったぞ。

いろいろふんぎりがついた。

今年のはじめ、会社をやめた。腰を痛めて、体もおかしくて、医療休暇を取って、4ヶ月の間いろいろ悩んで考えて、出した結論。職場は楽しかったし、同僚は大好きで、今もこれからも大事なお友達。でもわたしのこれからは、また別の道。はっきりは見えないけれど、自分でこれから草をかき分けて開いていく道。けもの道。

会社辞めてまもなくロックダウンに入っちゃったのも、フラフラせずにうちで手を動かして何でもいいから何かものを作ることに集中できたきっかけだった。マスクいっぱいつくって、絵を描いて、そしてごはんを毎食作って・・・(これはまだまだ続く。ぐわー)。コンピューターは用事のある時や何か書き物するときだけで、あとは手は自由に何かを作っていた。あ、そうか、私の手は、キーボードから自由になって、何かを作りたかったのかもしれないな。仕事やめたのも、手が「自由にさせてください」と、頭に働きかけていたのかもしれないな。

PTSDのセラピーでは、最後にいろんなトリガーを自己肯定感と結びつけるような作業をする。以前はビクビクさせられていたトリガーに対しても、不思議と落ち着いた気持ちで対峙できるようになる。それは、今までなかったところに、何かを作っていくような感じのする作業で、自分自身という建物を建てていて、その過程で鉄筋が加えられているような感じ。以前の自分のイメージは、家の片側の柱が折れて傾いているような家屋だったけれど、今は柱がしっかりと強化されて再建されてる感じ。先生は、それはまさに脳の中でパスウェイが作られているからだよ、と言っていた。

わたしの体の問題は消えてなくなるわけでもないし、わたしの人生から突然問題が消えるわけではない。でもセラピーによって、そういう物事に対して、以前にはなかった自己肯定感を持って臨むことができるというのは、ほんとに天と地の違い、180度の変化だ。あの生きにくさから解放されつつあるなんて、以前は想像もできなかった。

ところでこの変化は、髪型にも出てきている。まず、去年、おでこをだすことができるようになった。それまでは顔を出すのがいやで、前髪は目のギリギリまであった。その後、仕事をやめたころから、白髪染めをやめた。そして今度は、髪をバッサリ切って、長さでは夫とかわらないくらいの、かなりのショートにした。ずっとショートにしたかったけど、人の目を気にしてたり、自分でも自分をさらけだすのが怖くて、できなかった。それができるようになって、気に入っている。こんな気持ちよさ、以前は想像もできなかった。

セラピーできてよかった。本当によかった。まだ終わってないけど、本当に感謝してる。

自分のこと

前回書いてから、しばらく時間が空いてしまった。

書いてて、いろいろ思い起こすのが結構きつい作業だったのもあるけれど、あの後からセラピーを始めて、何となく気ぜわしくなっていた。

こちらでは、人を亡くした時などに、グリーフ・セラピーというのをする。お父さんを亡くした後の心の状態を整理したいというのもあり、会社の福利厚生を利用して始めることにした。

このグリーフ・セラピーが、数ヶ月もせずに、PTSDセラピーに形を変えた。

セラピストの先生と話をしていくうちに、お父さんの世話で忙しいからと何十年もフタをしていた過去のことが、今の自分を良くない形で形成してしまっていたことがわかってきた。

そして、今まで「まあしょうがないや」とか「こんなもんなんだろうな」と思って、もがきながらあきらめていた「症状」が、実はPTSDが原因かもしれないというのだ。

そういう見方をすると合点のいくことが結構あった。親しい人たちに話したら「え、自分でPTSDって知らなかったの?そうだと思ってたよ」などと言われる始末。自分のこと、自分が一番よくわかっていない。

それで、1ヶ月前くらいからPTSDに特化したセラピーを始めた。これが、結構辛い。

先生の例えを用いると、皮膚の下でぐちゃぐちゃの膿がたまったまま閉じてしまった傷を、また一度開いて、膿をえぐり取り、消毒して、きれいにしてから傷を閉じるような作業だということだ。

この作業、きついんだけど、これほどしっかりと過去に起きたことと向き合ったことはない。私の今までの脳みそでは、過去のことが無意識に今も自分の頭の中で継続して起きていて、今の自分をも脅かすものとなっていた。だから、普通にしていても、どこか怯えていたり、ビクビクしている。だけれど、それらの出来事に対峙することにより「大変だったね。でも昔のことであって、今の自分は安全なのよ」と言えるようになる。過去の出来事にちゃんとタイムスタンプを押してあげて、ぐるぐる回るフラッシュバックのサイクルをプチっと切ってあげる。ていうかまだそこまで行ってないんだけど、そういうのがゴールである。

このセラピーが一段落した頃、今の自分も過去の自分も、思いやりと優しさを持って受け止めてあげられるようになっていたいと思う。

二回目の脳内出血 - 試練の始まり

1995年は、お父さんはほぼ快復し、無事に過ぎ去っていった。仕事も元のようにできるようになったし、ほんの少しの痺れや麻痺を除いては、健康状態は良好だった。

 

翌年1996年の1月に、私は昔から大好きだった人と結婚した。

(残念ながら、後々離婚という結果になってしまったのだけれど、それを乗り越えて今はお互いに頼りになる友人となった)

 

結婚後は、旦那の社宅に引っ越した。旦那は半導体のエンジニアで、当時仙台の北の方にあった研究所で働いていた。アメリカ人なので、いつかはアメリカに戻るかもしれない、という可能性はあったけど、とりあえずは仙台にとどまることにした。

 

私は結婚直前に英会話講師のバイトを辞めた。お父さんの事務所もそのうちお父さんに任せ、結婚後は新たに職を探すつもりだった。同級生にはバリバリ働いている子がたくさんいて、私も、彼女たちのようにカッコよく働いてみたかった。

 

結婚してまだ2ヶ月も経たない3月のある日、私はその素敵な同級生たちと同窓会と銘打って、一泊旅行で近くの温泉に出かけた。みんなで温泉に浸かって、食べて、雑魚寝して、ワイワイガヤガヤ、あんなに笑ったのはその前はいつだったか、という程に楽しい時間を過ごした。

 

次の朝、宿からバスで仙台駅まで戻り、みんなそこで解散することになった。当時それほど普及していなかった携帯を持っていなかった私は、公衆電話から旦那に電話をかけ、今から帰るからと告げるつもりだった。

 

いざ電話をかけると、旦那は、私に連絡を取ろうと必死になっていたことがわかった。温泉宿にも電話をかけたが、私達のバスがちょうど出た後だったらしい。

 

「お父さんが、倒れた」

 

だから今すぐ帰ってきて、と告げられた。

 

言葉が出ず、立っていられなくなった。だんだん、頭がクラクラして、吐き気がして、しゃがみこんでしまった。

 

その日は日曜だったので、お父さんは、朝風呂に入っていたらしい。入るところだったのか、上がるところだったのかわからないが、湯船の外で、急に右半身の感覚がさーっと消えていったのだそうだ。これはやばいと悟ったお父さんは、とにかく私の旦那に電話をかけなければと思い、這いずって電話をかけた。これができたのが、不幸中の幸いだった。

 

その後、以前と同じI病院に緊急搬送された。

 

とりあえず私は自宅に帰り、旦那と一緒にI病院に行くことになった。同級生の中でも人一倍優しいEちゃんが、ショックにひしがれる私とわざわざ一緒に地下鉄に乗って、旦那の元まで送ってくれた。フラフラでぐちゃぐちゃだったので、本当にありがたかった。

 

 

お父さんは、今回も、脳内出血だった。一回目から、1年半も経っていなかった。以前のは手術可能な場所だったが、今回はそうではなく、自然に治癒するのを待つしかなかった。

 

幸い、命に別状はなかったが、この病気のもたらす諸々と共に生きるということは、あらゆる面からの試練を受け入れなければいけないということでもあった。それがどんなことであるかは、この日の私たちには想像する余地もなかった。

最初の脳内出血 - 一時的な回復

発症から1カ月半経った1994年12月、お父さんはやっと退院した。

 

手にはまだ震えや痺れがあったけれど、外からはあまりわからなかった。右足は少しだけ引きずっていた。これも見ただけではわからなかったけれど、小さな段差に気をつけないといけなかった。

 

一番心配だったのは、自宅に帰ってからのことだった。あのボロボロの古い家はトイレが和式だったので、上からかぶせて洋式にできるものをつけた。しゃがむのはキツイだろうし、血圧にも良くなさそうだから。また、窓も薄いし隙間風も吹くので、冬は特に暖かくしないといけなかった。

 

お父さんは12月中には仕事に戻ったけれど、病後・術後というのは疲れが尋常ではないらしく、午後になると横にならないとやっていられないようだった。年内は私もフルタイムで店番をしたので、事務所の隣の空き部屋にベッドを置き、お父さんが疲れたらそこで昼寝をしてもらうことにした。

 

年明け(1995年)には、私は予定通り英会話講師のバイトを始めた。授業開始は午後4時か5時なので、3〜4時半頃には事務所を出なければいけない。お父さんにはそれまでに昼寝を済ましてもらって、私が出る時にバトンタッチした。

 

講師の仕事が終わって帰宅するのは夜9時半くらいだった。教えている間は食べる時間がないので、お腹が空いてフラフラな時は授業の合間にコーヒー用の砂糖を舐めてしのいだこともある。私の夕ご飯は帰り道のコンビニで買った。お父さんには、外食できる時はしてもらって、それ以外は出来合いとか簡単に作れるものを作って先に食べてもらった。今考えると二人ともなんと不健康な生活をしていたかと思う。でも年端の行かない私は知恵も時間も余裕もなく必死だったから、しょうがなかったとしか言いようがない。

 

春には、あの寒いボロボロの家ではダメだと、すぐ近所の集合住宅に引っ越すことにした。お父さんを手伝ううちに賃貸のことをいろいろ学んだ私は、半ば強引にことを進めてしまった。相変わらず古くて狭い物件だけど、鉄筋だから室温も上がるし、洋式トイレだし、という言い訳で。でも実は、当時住んでいた家とさようならしたかったから、この機会を逃すわけにはいかない、というのが本心だった。

 

引っ越しの日、引越し屋さんが台所から冷蔵庫を搬出しようとすると、それまで冷蔵庫の置いてあった床の木が腐って落ちてしまっていたのがわかった。北向きの水回りの床は、大体傷んで腐りかけては、少し直してはだましだまし暮らしてきた。その床の穴を見た引越し屋さんたちが、おおっ、という反応をした。落ちたら危険というのももちろんあるけれど、家のことを恥ずかしく思っていた私には、それが「あなたはなぜこんな家に住んでいるの?」という反応にも見えた。それまでにも、それからも、そういうことを言われたことがあったから。

 

お父さんは、暖かくなるにつれ、体調もよくなっていった。間もなく車も運転できるようになり、リハビリで身体能力も大分回復した。 でも、それは、元の生活習慣に戻るということでもあった。発症までは一日数箱吸っていたタバコはさすがにやめたけれど、味が濃く脂っこい食べ物が中心で、夜も遅く寝た。しょっちゅう買い物をしたり、東京に遊びに行ったり、とにかくなんでも「そこまでするか?」というくらいにするのは、まるで何かの空洞を埋めようとしているかのようだった。

 

表面上は回復したかのように見えたお父さんの生活が再び激変したのは、翌年1996年のことだった。