最初の脳内出血 - 一時的な回復

発症から1カ月半経った1994年12月、お父さんはやっと退院した。

 

手にはまだ震えや痺れがあったけれど、外からはあまりわからなかった。右足は少しだけ引きずっていた。これも見ただけではわからなかったけれど、小さな段差に気をつけないといけなかった。

 

一番心配だったのは、自宅に帰ってからのことだった。あのボロボロの古い家はトイレが和式だったので、上からかぶせて洋式にできるものをつけた。しゃがむのはキツイだろうし、血圧にも良くなさそうだから。また、窓も薄いし隙間風も吹くので、冬は特に暖かくしないといけなかった。

 

お父さんは12月中には仕事に戻ったけれど、病後・術後というのは疲れが尋常ではないらしく、午後になると横にならないとやっていられないようだった。年内は私もフルタイムで店番をしたので、事務所の隣の空き部屋にベッドを置き、お父さんが疲れたらそこで昼寝をしてもらうことにした。

 

年明け(1995年)には、私は予定通り英会話講師のバイトを始めた。授業開始は午後4時か5時なので、3〜4時半頃には事務所を出なければいけない。お父さんにはそれまでに昼寝を済ましてもらって、私が出る時にバトンタッチした。

 

講師の仕事が終わって帰宅するのは夜9時半くらいだった。教えている間は食べる時間がないので、お腹が空いてフラフラな時は授業の合間にコーヒー用の砂糖を舐めてしのいだこともある。私の夕ご飯は帰り道のコンビニで買った。お父さんには、外食できる時はしてもらって、それ以外は出来合いとか簡単に作れるものを作って先に食べてもらった。今考えると二人ともなんと不健康な生活をしていたかと思う。でも年端の行かない私は知恵も時間も余裕もなく必死だったから、しょうがなかったとしか言いようがない。

 

春には、あの寒いボロボロの家ではダメだと、すぐ近所の集合住宅に引っ越すことにした。お父さんを手伝ううちに賃貸のことをいろいろ学んだ私は、半ば強引にことを進めてしまった。相変わらず古くて狭い物件だけど、鉄筋だから室温も上がるし、洋式トイレだし、という言い訳で。でも実は、当時住んでいた家とさようならしたかったから、この機会を逃すわけにはいかない、というのが本心だった。

 

引っ越しの日、引越し屋さんが台所から冷蔵庫を搬出しようとすると、それまで冷蔵庫の置いてあった床の木が腐って落ちてしまっていたのがわかった。北向きの水回りの床は、大体傷んで腐りかけては、少し直してはだましだまし暮らしてきた。その床の穴を見た引越し屋さんたちが、おおっ、という反応をした。落ちたら危険というのももちろんあるけれど、家のことを恥ずかしく思っていた私には、それが「あなたはなぜこんな家に住んでいるの?」という反応にも見えた。それまでにも、それからも、そういうことを言われたことがあったから。

 

お父さんは、暖かくなるにつれ、体調もよくなっていった。間もなく車も運転できるようになり、リハビリで身体能力も大分回復した。 でも、それは、元の生活習慣に戻るということでもあった。発症までは一日数箱吸っていたタバコはさすがにやめたけれど、味が濃く脂っこい食べ物が中心で、夜も遅く寝た。しょっちゅう買い物をしたり、東京に遊びに行ったり、とにかくなんでも「そこまでするか?」というくらいにするのは、まるで何かの空洞を埋めようとしているかのようだった。

 

表面上は回復したかのように見えたお父さんの生活が再び激変したのは、翌年1996年のことだった。