二回目の脳内出血 - 試練の始まり

1995年は、お父さんはほぼ快復し、無事に過ぎ去っていった。仕事も元のようにできるようになったし、ほんの少しの痺れや麻痺を除いては、健康状態は良好だった。

 

翌年1996年の1月に、私は昔から大好きだった人と結婚した。

(残念ながら、後々離婚という結果になってしまったのだけれど、それを乗り越えて今はお互いに頼りになる友人となった)

 

結婚後は、旦那の社宅に引っ越した。旦那は半導体のエンジニアで、当時仙台の北の方にあった研究所で働いていた。アメリカ人なので、いつかはアメリカに戻るかもしれない、という可能性はあったけど、とりあえずは仙台にとどまることにした。

 

私は結婚直前に英会話講師のバイトを辞めた。お父さんの事務所もそのうちお父さんに任せ、結婚後は新たに職を探すつもりだった。同級生にはバリバリ働いている子がたくさんいて、私も、彼女たちのようにカッコよく働いてみたかった。

 

結婚してまだ2ヶ月も経たない3月のある日、私はその素敵な同級生たちと同窓会と銘打って、一泊旅行で近くの温泉に出かけた。みんなで温泉に浸かって、食べて、雑魚寝して、ワイワイガヤガヤ、あんなに笑ったのはその前はいつだったか、という程に楽しい時間を過ごした。

 

次の朝、宿からバスで仙台駅まで戻り、みんなそこで解散することになった。当時それほど普及していなかった携帯を持っていなかった私は、公衆電話から旦那に電話をかけ、今から帰るからと告げるつもりだった。

 

いざ電話をかけると、旦那は、私に連絡を取ろうと必死になっていたことがわかった。温泉宿にも電話をかけたが、私達のバスがちょうど出た後だったらしい。

 

「お父さんが、倒れた」

 

だから今すぐ帰ってきて、と告げられた。

 

言葉が出ず、立っていられなくなった。だんだん、頭がクラクラして、吐き気がして、しゃがみこんでしまった。

 

その日は日曜だったので、お父さんは、朝風呂に入っていたらしい。入るところだったのか、上がるところだったのかわからないが、湯船の外で、急に右半身の感覚がさーっと消えていったのだそうだ。これはやばいと悟ったお父さんは、とにかく私の旦那に電話をかけなければと思い、這いずって電話をかけた。これができたのが、不幸中の幸いだった。

 

その後、以前と同じI病院に緊急搬送された。

 

とりあえず私は自宅に帰り、旦那と一緒にI病院に行くことになった。同級生の中でも人一倍優しいEちゃんが、ショックにひしがれる私とわざわざ一緒に地下鉄に乗って、旦那の元まで送ってくれた。フラフラでぐちゃぐちゃだったので、本当にありがたかった。

 

 

お父さんは、今回も、脳内出血だった。一回目から、1年半も経っていなかった。以前のは手術可能な場所だったが、今回はそうではなく、自然に治癒するのを待つしかなかった。

 

幸い、命に別状はなかったが、この病気のもたらす諸々と共に生きるということは、あらゆる面からの試練を受け入れなければいけないということでもあった。それがどんなことであるかは、この日の私たちには想像する余地もなかった。