最初の脳内出血 - 嫌な予感

お父さんが最初に脳内出血を患ったのは、1994年10月のことだった。

 

その夏、留学から帰国後、アメリカ(というかアメリカにいたその時片思いだった人)が恋しくて、とんぼ返りでアメリカに旅行しに行った私は、思いっきりフラれて、ロサンゼルスから日本に帰るところだった。

 

飛行機に乗る直前、日本のお父さんの所に「今から帰るよ」って言うために電話したのに、何度かけても出なかった。時差を考えても、いるはずの時間だった。

 

なんだか嫌な予感がした。

 

約10時間後、成田に到着してすぐ、また電話をかけた。午後8時前後だったが、またも出ない。数回かけて、ずっと鳴らしたけど、出ない。遅い時間だし、私も疲れていたので、また出なかったら、このまま東京近辺で泊まって翌朝仙台に帰ろうと思っていたけれど、一応断ってからと思ったので、もう一度かけてみた。

 

そしたら、出た。

 

でも何を言っているのかわからない。

 

唸り声のような、寝言のような、今まで聞いたことのないような声しか聞こえてこない。どうしたのか聞いてみても、言葉が出てこないようだった。

 

血の気が引いた。お父さんに何かがあったのはわかるけど、何があったのかはわからない。しかし明らかにどこかが悪い。すごく悪い。

 

そのまま待つように言って、電話を切り、父の兄夫婦にすぐに電話をかけ、救急車を呼んでもらった。私もとにかく一刻も早く仙台に帰らなければならない。東京に泊まろうなどという呑気な計画はもちろん捨て去り、急いで成田を去った。

  

下りの最終の新幹線は、那須塩原までしか行かなかった。でもとにかく仙台に向かわねばならない。渡り鳥や鮭が本能で移動するように、とにかく北を目指し、新幹線に飛び乗った。

 

那須塩原からは、郡山だか福島までタクシーに乗った。数万円したと思う。その先は教会の友達に車で迎えに来てもらって、お父さんのいる病院に連れて行ってもらった。到着した時は、夜中の2時半をまわっていた。

 

この時のことは、もう大分前のことだし、時差ボケと寝不足で、詳しくは覚えてない。スーツケースを引っ張りながら病院に入れてもらい、とりあえずお父さんが生きていることを確認した後、主治医の先生とお話のできる朝まで、待合室の長椅子で横になっていたことは覚えている。

 

普段は混み合っているだろう待合室は、夜中は非常口の誘導灯の光でぼんやりと緑色に照らされ、しんと静まり返っている。自分の乱れた感情だけが雑音を立てている。

 

何が起きているんだろう。これからどうなっちゃうんだろう。疲れた心と体で言葉にならない不安を抱えながら、ほんの少しだけウトウトした。