生きやすい場所

今日友達と、日本に短期〜中期滞在するということについて話していた。

 

彼女もわたしも随分前に日本からこちらへ移ってきたが、高齢の親がまだ日本にいる。それもあって、また他に個別の理由もあって、日本に期間限定で住むということについてそれぞれ真剣に考えている。

 

家族がいるということが一番の理由ではあるけれど、日本には美味しいものもあるし、美しい文化もあるし、素敵な場所もたくさんあるし、電車なども素晴らしいし、その他いろんな愛しいところがある。

 

だけれども、人生のほぼ半分をこの国で暮らしてきて、その間何度か日本に長期的に帰国してしまおうという機会がなかったわけでもないのだけれど、わたしはその都度こちらにいることを選んできた。

 

理由は、言葉にできたものもあれば、まだ言葉にできなくてモヤモヤしたものもあるし、すべての人に大声では言いたくないものもある。そして言葉にできている理由だって、筋が通ってないかもしれないし、人から見ればいいかげんなことかもしれない。

 

わたしは日本にいると、いつもどこか緊張している。例えば、身なりでジャッジされることがこわい。「もっとおしゃれな人だと思ってた」「何年そのバッグ持ってるの?」「運転するときに手袋しないなんてありえない」「もうおばさんですね」と、そのままでいることをいちいち咎められるのが、チリも積もれば山となり、心がどんどん重くなる。そういうことを言われないように「ちゃんと」しなきゃと思うのだけど、ちゃんとというのがどういうことかわからなくて、パニックになる。

 

見た目のこと以外でも、そういえば小さい頃からいろんな干渉をされていた。「お母さんいねーくせに」「なんで学校来ないの」「食べるの遅すぎ」「どうしてそこ(ボロ家)に住んでるの」「一人っ子なのにお父さん残して(外国に)出ていくなんて、かわいそうじゃない」次は何を言われるんだろう、いつ誰がドアをバーンと開けてなにかを言い捨ててまたすぐ出ていくのだろう、と、ビクビクしながら生きていた。

 

村田沙耶香さんの小説「コンビニ人間」に「皆、変なものには土足で踏み入って、その原因を解明する権利があると思っている。」という一節があった。どうあがいても、わたしはいつも「外の人」で、だから中でうまくやっていける「中の人」達は、靴を履いたままわたしの上を歩いてもいいと思っていたのかもしれない。

 

それが、この国に来たら(もとい、この州に来たら、が正しい)、室内では土足の人も多いのに、わたしの上を土足で歩き散らす人は、あまりいなかった。

 

いろんな背景の人がいるから、こうじゃなきゃいけないという決まりごとがあまり通用しないというのもあるし、ゴチャゴチャ言う人には「うるせーな」「おととい来やがれ」など様々な言い方で反撃の言葉を放っても全然OKな文化だからかもしれない。この「まあそれもアリでしょ」の幅の大きさと、反対意見を受け止める懐の深さ、そして普段のほったらかされ具合が、とても心地よくて、わたしはここにずっと居続けている。

 

どちらかの国が完璧だからということでは決してない。この国だって、ちょっとそれはありえんだろう、ということがいっぱいあるし、はらわた煮えくり返ることであふれている。だけど、自分にとってすごく大事なことが、この国では(今のところ)守られているし、守りやすいということなんだと思う。そのうち変わるかもしれないけど。

 

壊れ方Aと壊れ方Bのどちらなら受け入れられますか、また、壊れたところを補うべき特典1と特典2がありますがどちらがいいですか、と眼鏡を作ってもらうときのような質疑応答をひとり繰り広げ、自分の生きやすい場所はここなのか、わたしは今日も確認作業を行う。

歩道に座っていたあなたへ

もう7年くらい前の話だろうか。以前住んでいた家の前に、高校生くらいの女の子が座り込んでいた。歩道の縁に体育座りをして、頭を膝に埋めていた。

 

もう日暮れ時で暗くなりかけていた。顔は腕と長い髪に隠れて見えないが、泣いていた。

 

私から見れば年端も行かない子だし、心配になって、おそるおそる声をかけてみた。返事はない。でもとりあえず隣りに座っていいか聞いたらいいと言うので、座った。そして彼女が泣き止むまでそこにいた。人通りも少ない静かな住宅街なので、人目を気にする必要はなかった。

 

泣き止んでから、少しずつ話を聞いてみると、家の中でゴタゴタがあって、飛び出してきたということだった。空は暗くなって、このまま外にいるのもなんだし、すぐうしろの私たちのうちにあがることをすすめたら、本当にあがってきてくれた。おせっかいなアジア人のおばちゃんだと思ったことだろうが、私としては明らかに困っている年端のいかない子をそのまま外にほったらかしにすることは避けたかった。

 

うちに入ると、少し落ち着いて、普通の高校生らしい話もしてくれた。学校で水球をやってることなど、彼女の普段が垣間見えるような話で、少しホッとした。

 

その後、詳細に渡っては覚えていないのだけれど、どうも彼女の家の中の様子は本当にヤバいようだったので、本人の同意を得て警察を呼んだ。実は彼女の家はうちから5、6軒ほどしか離れておらず、すぐ見えるところにあった。彼女は確か靴を履いていなくて、家を飛び出てそのまま通りの終わりで座り込んだようだった。

 

聞くと彼女のお母さんはアルコール依存で、どうやらほんの少し前にも同じような騒ぎで警察が呼ばれていたらしかった。お父さんもなす術がないようで、飲んでは家族に悪態をつき喧嘩や大騒ぎになるということが常態化していたらしい。

 

お父さんにも連絡が付き、警察による家のチェックも大丈夫だったということだったので、彼女は帰ることになった。彼女を最初に見かけてから2、3時間経っていた。うちを出る時、何かあったらいつでも来ていいから、と伝えておいたが、あれ以来彼女を見ることは一度もないまま、私たちは数年後に引っ越してしまった。

 

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どうしても幸せを自分で見つけられず、そのせいで周りを責めてしまう人を親に持つと、子どもはすべてをかけて親を幸せにしようとがんばってしまう。はなから自分で自分の幸せに責任を持つ気のない人を幸せにするなんて、他人には到底不可能なことなのに。でも子どもにはそれがわからないから、親が不幸せだったり不満足だったり、ましてや自分に当たられたりすると、自分のせいだと思いこむ。そして自分は到底誰をも幸せにすることなんてできない、誰の役にも立たない、出来損ないだと思いこむ。

 

私がそうだったもの。だって一番近い一番大きな存在が(私の場合は父親が)そういうメッセージを常に送っているのだから、そう思うようになるのは仕方ないというか当たり前だ。

 

私はだいぶ元気になったけれど、今でも時々自分は役立たずだとか出来損ないだとかいう思い込みがふと変な形で顔を出すことがある。まだ自分の中で処理できていない何かが表面化した時に、そういう思いが出てくる。今日のセラピーでは、そういうことを処理しやすくするような手助けをしてもらった。そうしたら、あの時のあの子のことを思い出した。

 

彼女も、もう20代半ばくらいになっているはず。どうしているかな、傷に膿がたまったりしていないかな、自分を責め立てず、大切な自分を大切にできているかな、とか、時々思う。

 

あのときのおせっかいなアジア人のおばちゃんは、何もできないけど、今でも時々あなたの横に座っていますよ。こうして思うことしか、できないんだけど。

足るを知り満ちるを学ぶ

Spotifyでミシェル・オバマのポッドキャストが始まった。昨日の夜やっと時間を取ることができて、第一回のゲスト(ふふ ^_^)オバマ元大統領との対談を聞いた。

 

もう胸がいっぱいになるような、涙が流れてくるような、素晴らしい内容だったんだけれど、ひとつ私の心に残ったのは、満足ということについての話だった。

 

二人とも決して金銭的に裕福とは言えない環境に育ったけれども、貧しいと感じたことはなかったと。親そして祖父母が、子どもたちのことをちゃんと考え、友達も含めた子どもたちみんなを、大人みんなで育ててくれた。ぜいたくはせず、生活の中での優先順位がちゃんと決まっていた。

不平不満を言ったりすると、親から「Never satisfied(足るということを知らない)」と呆れられたという。例えば、目の前にちゃんとアイスクリームがあるのに、トッピングが欲しいとか、あれがないこれがないとか、言い始めるときりがない。食べ切る前から、なぜもっと欲しいという?それを聞いて、子どもたちは子どもたちなりに、まあそりゃそうだよな、とちょっと恥じ入る気持ちになったそうだ。

 

これを聞いて、両親のことを思った。彼らは、戦中戦後に子ども時代を過ごした。ほぼみんなが貧しかった頃。

 

ママは、きょうだいや、広い意味での家族も含めた人たちと、小さな家で育った。貧しかったけど、ママのおばあちゃんは何かしらおやつをいつも用意していて、気がつけばいつの間にか近所の子どもたちが上がってきては遊んでいるような、にぎやかな家庭だったそうだ。「しっかしあの頃は貧乏だったよねーアハハハでも楽しかったよー」と、悲壮感のかけらなど一切なく明るく話すところを見ると、本当に楽しい子ども時代だったのだろうと思う。

 

父も、きょうだいや、広い意味での家族も含めた人たちと、貧しい家庭で育った。でも、ママのところとは違い、楽しかったという話はほぼ聞いたことがない。家族間の不道徳、親子の間のえこひいき、きょうだい間の羨み、理不尽な扱いなどが横行していたと、いろんな人から聞いた。そのことは、父の普段のふるまいからも明らかだった。

 

育った環境は、その後の人生に大きな影響を及ぼすものだ。

 

ママは、背伸びをせずに、自分の身の丈で生活できて、それで満足できる人。あるもので間に合わせられる。まわりの人の世話もちゃんとできて、人付き合いも気負わずに楽しめる。

 

父は、お金があれば買い物ばかりしていた。なにかにこだわりだすと、ブレーキの効かない人だった。バブルの頃など、毎週末(どころかもっと)街に出かけては服を買っていた。ある時期は白いシャツを探していたようで、しばらく前に父のアパートの片付けをしていた時、白いシャツが60枚以上箱に詰められて出てきた。どれも一度袖を通したか通していないか程度の新品だった。

だけど、住む家には一切お金をかけたくないようで、借りていた家の雨漏りがひどくなっても、台所の床が抜けても、家賃が上がるのが嫌だと言って大家さんには連絡しなかった。しかしその事に関し堂々としているわけではなく、うちに人は一切呼ばず、ボロで恥ずかしいと言っていた。

 

父は、本当の自分をさらけ出すのが恐ろしくて、外には虚栄心があった。家はボロボロで、服装だけはちゃんとしていたのは、それの表れのような気がする。心のなかの大きな虚無を、もので埋めようとしていたのかな。

 

私はというと、あの二人を親に持ったおかげで、こうでありたいという方向性を自分なりに探してこれた。

 

30代の頃、自分で使えるお金が少し貯まってきて、身につけるものに少しだけお金をかけてみたりしたのだけれど、父のようになりたくないという恐怖が強くて、買い物する度にドキドキしていた。大体、ちょっと着飾ったからと言って、自分はどんくさいという思いが消えるわけじゃない。結局しばらくしたら、自分にはユニクロの通勤電車プリントTシャツが一番の宝物だと思えるようになった。

 

身の丈を知る、ということは満足につながる。満足ができれば、自分のことだけを考えるという不自由と孤独から解放される。

 

自分の靴下の引き出しとかを見てると「なぜこんなにたくさん?!」と思うし、満足とはなにかということを身につまされるのだけれど、少しずつ足るを知り満ちるを学び、分け合うことに喜びを見出す人になりたい。(静かにアマゾンを閉じる)

保護犬たち(猫も)の教えてくれること

今日は、うちのワンコちゃんがうちに来てちょうど3年目だった。今週末はいろんなお祝いをした。新しいおもちゃをもらい、普段よりオヤツを多くもらい、普段行かないお散歩コースを歩き、私たちもすごく楽しかった。本当にいい子で、優しくてかわいくておもしろくて、家族みんなに愛されている。おそらく11歳くらいではないかと推定されるが、これからも元気で長生きしてほしいなあと思う。

 

この子は私にとっては4匹目のワンコ。シニア犬保護団体から来た。田舎の方で迷子になってるところを保健所のようなところに保護され、そこから保護団体が引き取ってくれた。田舎でも特にあのあたりは殺処分が多いので、保護団体が引き取ってくれなかったらと思うとゾッとする。

 

様々な保護団体と関わってきてだいぶ経つが、いろんな犬(猫も)のコミュニティの中でも保護団体関連が一番自分にしっくり来る。ブリーダーについては、きちんとしたミッションと責任を第一にしている場合には、私は反対する立場になく、支援に値する団体もあると思う。ただ、カジュアルなブリーダーや、営利第一、犬猫を商品と扱うところに関しては、反対の立場であり、特にペットショップなどに関しては強く反対する立場だ。このあたりに関しては長くなるので今日はやめておく。

 

保護犬たちには、それぞれいろんなストーリーがある。彼ら自身に非はなく、残念ながら人間の都合で辛いところに追い込められてしまった子ばかりだ。また、うちの3匹目の子のように、残念ながら飼い主が病気になったり亡くなったりして行き場を失う子もいる(この子もまたとんでもなくいい子だった)。保護活動に少しでも関わると、人間世界の悲しさ、業、歪みなどがまざまざと見えてくる。

 

保護団体に行くと、いろんな子に会える。いろんな性格の子がいて、本当に面白い。雑種の子たちも、そして意外に思えるほど多くの純血統の子たちもいる。そしてそれぞれの子が、それぞれの理由で、そこにいる。

 

そこにいると、赤鼻のトナカイの映画の、The Island of Misfit Toys にいるような気がしてくる。わたしはそういう、いろんな存在が様々集い、生かし生かされている場所が好きだ。

 

みんな違っていいし、みんないろんなストーリーを抱えていていいし、そういう愛しい命を大切にし、一緒に生きていくというところに、大きな意義を見出す。

 

私も自分の非からくるのではないさまざまな目にあったからか、この子達に共感を覚えるのかもしれない。そして、そんな目にあってさえ、程度の差こそあれ、人を信頼し、愛を与えることのできるあの子達に、いつも驚かされる。

 

人間世界は、どうやったって完璧にはならない。いつもどこか必ず壊れていて、悲しいと思うことも起きるし、頭が爆発するかと思うほど怒りたくなることも起きる。だけど、それでもあらゆるものごとをそのまま受け止め、また自分のできることを模索していくうちに、美しさや喜びも見つけることができる。

 

保護犬(猫も)たちは、そういうことを私に教えてくれるのだ。

 

 

(なおうちはアレルギーの人がいるため猫がいないので、「猫も」はカッコ書きになってます。キライなんじゃないよ)

ミシンとの馴れ初め

3月にロックダウンに入ってから結構な数のマスクを縫った。こっちの人たちはマスクに慣れてないので、せめておもしろい柄のマスクでハードルが少しでも下がればと思い、いろんな柄の布を使い、形も何度も改良し、縫いやすい、効果的、使いやすい、を兼ね備えたデザインのプリーツマスクに落ち着いた。

くまモンマスク

くまモンのハンカチで作ったマスク


15年くらい前から使っているミシンを使って縫っていたのだが、久々に引っ張り出した時は難儀した。少し前に使った時は下糸が絡みまくり何度やってもうまくいかず、それ以来億劫で縫いたいものがあってもミシンはしまったままだった。しかし今回はそんなこと言っている訳にもいかず、一念発起してミシン問題と向き合うことにした。

 

検索してみると、何をするにも糸調子が一番大切、そのためには糸のかけ方をしっかりと確認すること、などなど、役立つヒントがいっぱいあった。短期間にいろいろ学びおさらいし、とりあえずマスク作りに没頭する生活が始まった。SNSとかに作ったものの写真を載せていたら、そのうち教えてほしいという人たちも出てきて、知る限りのことはシェアさせてもらった。まだまだ未熟者だし、なんか申し訳ない気もしたけど、こういうご時世そんな遠慮などしていられない。

 

私とミシンの馴れ初めは、とても理想的とは言えなかった。小学校5年の時だったか、家庭科の授業でミシンの使い方を習ったのだけれど、これが足踏みミシンだった。私はこれをどうしてもきちんと回すことができず、結局最後まで縫えなかったのはクラスで私一人だった。できない私に先生もイライラしたのか、クラスのみんなが見ている前で私にミシンを回させ、緊張した私は硬直してますますできない、という悪循環に陥った。少なくとも私の記憶ではそういうことになっている。

 

 

それまでも学校で先生たちによる「公開処刑」みたいなのは何回か受けていて、その度に学校が怖くなった。子どもを辱めたり脅したりしたところで、できるようにはならないんだけどね。子どもでも大人でも、緊張すると、できることもできなくなっちゃうじゃん。

 

中学、高校になり、電動ミシン(ホッ・・・)を使った授業では、パジャマやブラウスを作った。もともとものを作るのが好きな私は、案外楽しくなって、それ以降自分でも簡単な服を作ったりした。父が我流ながらも縫い物が上手で自分で服を直したりしていたので、それを見て私も自然と抵抗がなくなっていったのかもしれない。

 

大人になって、会社でみんなと働いたり、人の前に出たりといろいろやってるうちに、緊張しやすい場面でも、息を整えて目の前にあることに気持ちを集中させれば、大抵の不具合は乗り越えられるし、人の目というのは実は核心にあるものではない、ということを学んだ。今回の下糸が絡むミシンの不具合も、息を吸って、吐いて、ググって、を繰り返したら、案外苦なく乗り越えられた。クラスのみんなが見ているわけじゃないし、見ていたところでどうってことはない。ひたすら目の前にあることをやれば、多くの場合、道は開ける。

 

ところで件の15年もののミシンは、音と振動がものすごいし、布に針が刺さらないし、どうも使い勝手がおかしいなと思っていたら、先月とうとう縫えなくなってしまった。それだけマスクをたくさん縫ったということか。私のようなマスク制作人口も昨今は激増し、ミシンが入手困難なので困ったなあ、と思っていたら、たまたま近所のキルトショップで私の第一希望のミシンが入ってくるというので、予約をして一ヶ月ほど待った。そしてやっと届いたミシンは、まあなんと縫いやすいこと。ハイエンドではないけれど、手の混んだことをする予定もないので、十分すぎるくらいだ。本当に楽々と縫えて、ますますマスク作りや縫い物が楽しくなった。

新しいミシン

新しく届いたミシンは、なんと縫いやすいこと。

 

ミシンとの理想的とは言えない出会いから、糸調子問題など様々な難関を乗り越え(大げさ)、今では使うのが楽しいと言えるまでになったミシン。振り返ってみると感慨深いなあ。

 

ミシンよ、これからもよろしく。

 

「ステップ」なんとか

私には二人ステップキッズがいる。ステップキッズというのは、日本語だと結婚相手の連れ子という意味。私は彼らにとっては、ステップマザー、継母、ということになる。血のつながってない親子関係の続柄を表すときに、ステップ、という言葉が使われる。

 

彼らとは二人とも小学生の時からのつきあいなので、私は親・保護者としての役割をつとめてきた。いろいろ大変だったけど(てか親の役目は終わらないけど)、二人ともだいぶ大きくなり、家族の信頼関係も築き上げてくることができた。

 

私にも思春期の頃、5年ほどステップマザーがいた。いろいろ難しいもので、結局あまり親しくなれないままお別れとなってしまった。そして後々大人になってから、ステップファーザーもできたが、やはり大人になってからのことなので、どちらかというと親子というより親戚のような関係だ。

 

そんなわけで、自分が子どもとしてのステップな関係は、どうもよそよそしいものだったので、うちの子達とのバカ正直な関係には実のところ時々戸惑うことがあった。子どもたちが慕ってくれるのが嬉しい反面、「いやいや、何かあったらどうせ私は生みの親じゃないからってことになるんじゃないの」とか、どっか疑心暗鬼なところがあった。

 

社会的にもステップペアレンツにとってはどうも合点の行かないことは結構ある。学校に出す書類に書く親の名前は2つまでが多いし(欄外に書くけどシステムには入れてもらえなかったり)、会社の忌引き休暇にはステップペアレンツは適用外だったり(もちろん会社によっては交渉できると思うけど)。いくらがんばっていても認められにくかったり、ひとつ下に見られると感じることは多い。ステップペアレントとして経験が浅い時にはこれが結構こたえるものだ。

 

生みの親にとってかわるとかいう気持ちは微塵もなく、でも私は「私はあなたたちの生みのお母さんじゃないけど、親であり、保護者であり、私にはあなたたちを守り育てる責任があります」と言ってきた。そうやって転んでは起き上がりを繰り返してきて、今では自信を持ってあの子達の親であると、家の中でも外でもはっきりと言える。社会が「でも『ステップ』ペアレントでしょ?」と言いたげに見えるときでも、「はい、でも、親です。ちゃんと育ててきました」と、今は言える。

 

こないだまで勤めていた会社の通勤シャトルバスに、とってもおもしろい運転手さんがいて、私とオットはその人と仲良しになった。一番前の席に座って、その人とおしゃべりしながら帰るのは、とても楽しかった。その人に家族の話をしていた時、ステップキッズが二人いると言ったら、「ステップ?子どもは子どもでしょ!ステップも何もないじゃん。ディナーのこと、ステップディナーとか言わないじゃん?ディナーはディナー!キッズもキッズ!」とか、よくわからん説明だったけど(笑)、言わんとすることはものすごく突き刺さってきた。彼にもステップキッズがいて、でも全員自分の子どもだと、いつもはっきりと言い切っている。

 

そうだよな、家族は家族、ステップも何もないんだよな。家族には、いろんなカタチがあっていい。

 

血がつながっていても、いなくても、私にはたくさん家族がいる。親も、子どもも、そしてきょうだいも。みんなみんな、私の大事な家族。そのことに、今日も感謝。

 

 

高菜の油炒め

昨日、お友達へのおすそ分け用に、高菜の油炒めのおにぎりを作った。

ここで言う高菜は、古漬けを刻んだもので、こっちでも日系スーパーとかで買える。それをごま油で炒めて、ちょっとお醤油を足して、最後にごまを混ぜ入れる。それをごはんに混ぜ込んでにぎれば、最強のおにぎりができる。

私の最初の食べ物の記憶は、この高菜の油炒めだ。3、4歳の頃、福岡に住んでいて、その時ママが作ったのを(多分ごはんにかけて)食べたら、おいしくてびっくりしたのを覚えている。これが私にとってのおいしさの原体験。

その時住んでいたのは、市内にあるいわゆる二軒長屋?みたいなところだった。3棟ほど同じような建物があって、敷地内に大家さんも住んでいた。家の前には家庭菜園のような畑があった。幼かった割にはそこでのことは結構よく覚えている。

父はその頃はオーディオ機器会社の営業マンで、夜遅くまで働いて、出張もよくしていたので、私はママと楽しくお留守番していた。九州は激しい雨が降ることも多く、雷がなると怖くて二人で押入れに逃げ込んだ。でも、ママに「雷様におへそを取られないようにね」なんて言われておへそを隠したりしていると、結局楽しくなってケラケラ笑ってしまうのだった。

ある雨の日には、父は帰ってくるなり、洗面器を持って外に出た。程なく戻ってくると、洗面器の中には小さなアマガエルがいた。かすかにシャックリでもするように動くアマガエルはかわいくて、私は抱っこされながらニコニコ笑っていたのを覚えている。父も私がそう笑うのを見たかったんだろう。程なく雨は小降りになり、アマガエルは家の前の畑に逃された。

この頃は、まだ両親が一緒にいた。父も後に見るような行いや振る舞いはまだ見せていなかった。私は毎日楽しく、安心して育っていた。

高菜を炒める度、私の脳内ではこの頃のことが美しく優しい一瞬の映画のように再生される。私にとって高菜の油炒めは、おいしいだけじゃなくて、味わう度にちょっとだけ切なくなる、長くは続かなかった楽しい幼少期の象徴なのかもしれない。